北中地区の史跡など

 

北中地区には、伝統あるお社があります。(トップページ画像を参照)
北中独自の養蚕社(蚕神様)と子安地蔵尊。
栗田地区の氏子として祀る水内総社日吉大神社です。

北中養蚕社

  • 養蚕は、江戸時代中期から盛んになり、地域に豊かな恵みを与えて来ました。
    農民は村々に「養蚕社」を建て、蚕神祭を催し、生糸を生み出す蚕の無事な成長と質の良い「繭」が収穫できることを願いました。
    北中地区では春秋の2回「蚕神様を祀る」お祭りを催し、街の守護神として安寧と発展を祈っています。

子安地蔵尊

  • 北中では、地域のこども達の健やかな成長を祈って、毎年 「地蔵盆」(8月24日ごろ)近くの休日に、「子安地蔵盆」を催しています。
  • 古くから、今の長野駅構内あたりにあったお社は、信越線の開通に伴って移転しましたが、区画整理事業により、現在の場所に安置されました。
  • 昭和40年(1965)ごろ、「子安地蔵」と命名されました。

庚申塚(2体)

向かって左側の制作年数は不明ですが、右側の「庚申塚」は寛政12年(1800)の作と刻まれています。
60年に一度めぐってくる庚(かのえ)申(さる)の年に、人の体内に住んでいる三尸(さんし)と呼ばれる「虫」が、天帝に個人の悪事を告げに行くので早死にすると言われ、三尸が抜け出さないように、徹夜で庚申講という催しを行う習わしがありました。
左側の碑には、「月」(日の入り)「太陽」(日の出)と朝を告げる「鶏」と「猿」(言わざる・聞かざる)が刻まれています。

道祖神

村境に建てられ、悪霊・疫病が入り込むのを防ぐ、と信じられてきました。
後世になって、安全を守る神、生産の神とみられるようになりました。
性の神・性神の陰陽石が多く見られます。

悪源太義平(頼朝の兄)の墓

「長野県町村史」によれば
「栗田村の亥の方、源田窪耕地にあり、方二間・高さ二尺、塚の上に二尺余りの碑があり、土人伝えて曰く、義平の愛妾なるものが義平の没後、その骨をもって善光寺に参り、栗田村に来て葬りしものなり」
と記され、明治22年の鉄道の開通により、北中の個人所有の畑に移されたが、現在は円通院(栗田区)に安置されています。

水内総社 日吉大神社

  • 日吉大神社は、様々な方がブログを発信していますので、そちらを検索してください。
  • 北中も日吉大神社の氏子として、心のよりどころとしています。
  • 氏子役員や関係者による、春季例祭・虫除祭・風除祭・秋季例祭・勤労感謝祭・大祓祭。越年祭・元旦祭の8例祭は滞りなく執り行っています。
  • 新小学生一年生をお祝いする「勧学祭」の催し、こども神輿と大人神輿も練り歩く「秋季例祭」は大きなイベントです。

新一年生をお祝いする「歓学祭」

「北中」の名称

18世紀以前の史誌の記録として、集落が「組」を形成していて、当地区の仲良しの4つの「組」が合わさって協力し合い、上位自治組織の「栗田村」を形成していたことがわかります。
4つの組はそれぞれ「東組」「西組」「吉原組」「北中組」の名称で呼ばれていました。
「北中」の呼び名は小単位の自治組織として現在も継承されています。
「栗田村」は日吉大神社の氏子として律儀で闊達・相応な組織で、近傍の村の中でも主要な役割を担っていたことが読み取れます。

引用書籍
令和元年11月20日発行「古文書が語る栗田村」-村の姿と人々の生活-
(編集)栗田古文書冊子編集委員会
(発行者)長野市栗田町内会
P83~87「栗田村若者組連名帳」1856年1月を参照しました。